20230304-06 「海辺の映画館」1
- ろばすけ

- 2023年3月6日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年3月7日
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「ここから外を眺めるのが好きなんだ」 そうベンが言ったとき、俺は彼が突然歌いだしたのかと思った。 彼の声は甘く、口から出たとたんにふわりと溶けるようにまろく、耳に優しい。 大きいわけじゃなく優しいのに不思議にはっきりと響く不思議な声なのだ。
僕は初対面の時にそう思ったけれど、そのときは特にその不思議な印象が強かった。 つい、どんな顔をしてるのか確かめたくなって横を見ると、彼はどこか夢を見ているような顔で、ぼんやりと劇場の入り口の方を向いていた。
職場は海辺の映画館だ。 建物はもうずいぶんと古い。夏は賑わう街だけど今は中途半端な時期で、新作も特になく客はまばらだ。
「ここから見るとなにか違うの?」 俺はそう何気なく聞き返した。俺の目にはいつもの道路と、その向こうに砂浜の端っこと、海と曇天が見える。あまりにも見慣れた風景だ。 「...スクリーンみたいに見えない?」 彼はそう言って俺をちらりと見た。 「あー、じゃあ俺たちは観客だ」 「そういうことだね」 そう返してきたときの彼の微笑みがあんまり優しくて、それでいてどうにも寂しげに見えて、俺はちょっと、目をそらした。
今は上映中だからロビーには誰もいない。俺たちはもう半券のチェックもしちゃったし、今上映してる映画は2時間半もある。しばらくやることはない。
ベンは言うだけ言ったら満足したのか、またもとのぼんやりした表情に戻ったけど、俺は何となく今の会話を続けたくて言った。 「かれこれ1時間なにも起きてないなんて退屈な映画だな」
劇場の入り口は、端から端までガラス張りのドアが連なっていて、確かにシネスコサイズのスクリーンのようだ。 ロビーには淡い間接照明しかついていなくて薄暗く、秋の曇り空でも、明るいスクリーンを眺めている気分になる。 でもそこに登場するのは、前の道路を走っていく車たちの他は、カートを引いた老婦人とか、自転車で走り抜けていく学生とかで、なにか事件は起こりそうもない。
でも俺が言ったことを聞いてくすりと笑ったベンの横顔は美しかった。 俺はちょっと驚いて彼を凝視してしまい、それに気づいたのか、彼は俺の方を見て言った。
「君が期待してるような「事件」が本当に起きたら大変だよね」 「どうかな。別にアクション大作とかは期待してないよ」 どうだか。彼が内心で思ったのが見えた気がした。それ俺は聞きたいと思ってたことを言えた。
「君はほんとの「映画」は見ないの?」
映画館の従業員は映画好きの人が多い。 それが当たり前だと思ってた。何より俺がそうだから。みんな仕事の合間や自分のシフトが終わったあとに客席の隅っこに滑り込んで今かかってるやつを見るわけだ。チケットは要らない。
この映画館のスタッフは10人もいないけど、それをやらないのは、俺が観察してる限り支配人のコリンとベンだけだった。 映画が好きで働いてるんでもなかったら、ここがが職場としてそんなに魅力的だと思えなかったから、俺はちょっと不思議に思ってたんだ。
「ここで「スクリーン2」を眺めてる方が楽しいよ。 ベンはそう言ってうすく笑い、また外を見た。 彼が「スクリーン2」と呼んだのは、劇場の入り口のガラスの扉のことだった。 そのときちょうど、まだ若いカップルがそこを通りかかった。 手を繋いだふたりは楽しげに話していたけど、男の方がなにか言ったのか、女の子ははっと立ち止まってボーイフレンドを見た。 黒人のカップルはふたりとも美しく、そのときばかりは俺もあの古びたガラス扉をスクリーンと錯覚してたかもしれない。 次に何が起こるのか俺はつい気になってそのまま見続けた。 「観客」の存在に気づいていないふたりは、そのまま微笑みあったまま軽いキスを交わした。



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