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2022.12/25「帰宅」#グラスオニオン

  • 執筆者の写真: ろばすけ
    ろばすけ
  • 2022年12月25日
  • 読了時間: 7分

更新日:2023年1月21日


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 ブノワは自宅のドアを開けるまえに大きく深呼吸をした。

 間違いなく自分の住まいなのだが、彼一人の部屋ではない。今の彼にとっては「心配の種」がこのドアの向こうにいるはずだった。

 おそらくは。たぶん。願わくば。

 ブノワはその優秀な頭脳で普段はあまり使わない言葉を思い浮かべ、それから思い切ってドアを開けた。

「ただいま……」

 彼が発した声は心ならずも小さなものになった。

 中に入ったとたん、「我が家の匂い」としか言いようのない匂いに包まれて、彼はほっと息をついた。

 大量の本と、何種類かの煙草の匂い、ブノワと彼の同居人が好む香水のラストノート。

 だが彼の鼻が嗅ぎ取ったのはそれだけではなかった。

 スパイスと、ラムと、フルーツの匂い?

 彼はとっさにそう匂いのもとを想像し、それから彼の同居人が何か料理をしているのかもしれない、と自然に思ってまたため息をついた。

「彼」が料理を始めるのにはいくつかの理由が考えられる。

 それはつまり、ものすごく機嫌がいいか、あるいは悪いか、そのどちらか、なのだ。



 NYのパークアヴェニュー。100年近く前に建てられたアパートメントの上層階、エレガントなテラスが印象的な部屋が、有名な探偵、ブノワ・ブランの住処だ。

 だが、所有者は彼ではない。

 この部屋の所有者はフィリップ・ブキャナン。ベストセラー作家であり、時に辛辣なコラムニストとしても有名で、そしてブノワの長年のパートナーでもある男だ。

 そしてブノワが自室のドアを開けるのに緊張し、自身の声に返ってくる反応をうかがっていたのには理由があった。


 およそ仕事以外のこと、特に日常生活に興味がなく、仕事がなければ退屈して浴室にこもり、一方で難解な事件となれば興奮して我を忘れてしまう、という傾向がブノワにはある。

 今回も、依頼された難事件の捜査に夢中になり、出張先の滞在が予定より大幅に伸びてしまっていた。

 そしてようやく解決を見て帰宅の途につこうとした彼が気づいてみれば、世の中はもうクリスマスムードでいっぱいだったのだ。

 さすがの彼もあわててパートナーに連絡を取った。その時点ですでに彼は、それがおよそ10日ぶりの連絡だということに気づいていたのだったが、ほんとうに青ざめたのは何度電話をしメッセージを送っても、反応が一切ないと気づいた時だった。

『まあでも、部屋がその方のなら、帰ったら誰もいない、ってことにはならないでしょうし』

 数週間一緒に仕事をした捜査官は、事情を知ってあきれ顔を隠そうとしながらそう言った。

 彼なりのフォローのつもりらしかったが、もちろんその言葉はブノワを慰めはしなかった。

 それが、昨晩遅くのことだ。


 帰宅して一体どんな言葉が待っているのか、彼は帰りの飛行機でだいぶ想像をめぐらすことになった。

 フィリップ・ブキャナンは文章も辛らつだが、怒った時の発言ときたら、もともと嫌味なほど完璧なクイーンズイングリッシュに全くふさわしい、持って回った嫌味の生きた辞書そのものなのだ。

『まさかまだ生きてたとは思わなかった。君の葬式は先週終わったよ』

 以前言われたことがある言葉を思い返し(そうだつまり初犯ではない)、ブノワは空港で一番いいシャンパンを買った。

 空港から自宅までのタクシーから見える景色は、クリスマスのNYならではの美しさと輝かしさに満ちていただけれども、彼の心配を増幅させる役にしかたたなかったのだ。


 そうして彼が、数週間ぶりに帰宅したのは、クリスマス・イヴの夕刻であった。



 広々としたリビングに足を踏み入れると、2匹の飼い猫が彼の足元にすり寄ってきた。

 ひさしぶりのぬくもりを感じて彼は両手を伸ばし、まとめて抱き上げようとしたが一匹には逃げられ、黒猫だけを抱いてキッチンへ向かった。

「フィリップ? キッチンかい?」

 彼はそう呼びかけながらも、大いに違和感を感じていた。

 リビングはひどくとり散らかった様子だった。

 もともとふたりとも家事にまめなタイプではなかったが、普段なら定期的に家政婦の手が入るのでここまでひどい様子になることはないのだ。おそらくフィリップがしばらく家政婦に休暇を与えたか、部屋に入れなかったかどちらかだ。

 そんな事態は過去にもなかったわけではなかったが。


「ああ、お帰り」

 キッチンをのぞき込んだブノワを待っていたのは、見慣れた年上の恋人の顔だった。

 甘いハンサムは、寝癖がつき無精ひげが目立つ、彼らしくない様子でいたけれども、そう平然と返して、そしてオーブンの扉を開けた。

 とたんに、広いキッチンに甘く芳醇な香りが満ちた。

「! プディング?」

 オーブンで湯煎されていたのは、どうやら数週間前にフィリップが作っていたクリスマスプディングだった。じっくり熟成された伝統的デザートがいよいよ出番を迎えるタイミングだ。しっかり温められ、キッチンは甘いフルーツとラムの匂いでいっぱいになった。

 そして同時に、ブノワの脳裏には、あのとても甘く、重く、焼いたのではなく蒸してあるが故のもっちりと「重い」ケーキの食感と味がありありと思い起こされた。

「そう。僕の頭がおかしくなってなければ、今日はクリスマスイヴだったと思うんだが?」

 そしてもちろん、フィリップは若干ひきつった、帰宅したばかりの恋人の声や表情をしっかりと確認したうえで、眉をあげて見せてそう返したのだった。

「……ああ、まあ、そうだね」

 ブノワはかろうじて頷いて見せた。

 フィリップが気まぐれで作る料理はたいがいとても美味しいものだったが、いくつかの「英国の伝統的な」レシピは彼にとって大の苦手だったからだ。その中でも特に、クリスマスプティングは。


 そしてもちろん、彼の恋人はそんなことはよく知っていた。

 そもそも数週間前に、彼が半日かけてプティングの「仕込み」をしたのも、彼らがは些細な理由で険悪なムードになったのがきっかけだった。

 だからもちろん、ブノワは「イヴのディナーには間に合うように帰るよ」と送った自分のメッセージに対して返事をよこさなかった彼の「返事」が、念入りに温め直されたプディングなのだ、と理解した。

 このあと自分は、ブランデーを掛けてフランベされたクリスマスプティングをたっぷり皿に盛られ、とどめに生クリームを掛けられて言われるのだ、と。

『メリークリスマス、ブラン。君が辛うじてクリスマスイヴに間に合ったことこそが奇跡だから、それを祝おう』とでも。


「メリークリスマス、フィリップ。ずいぶん時間がかかってしまって悪かったよ。君に会いたくてたまらなかった」

 ブノワはそう言ってシャンパンをテーブルに置き、恋人を抱きしめるべく両手を差し出して近づいたけれども、フィリップはちらりと肩をすくめてみせただけで身を翻し、キッチンミトンをはめた両手で慎重に、プディングが入った大きな耐熱容器を取りだした。

 そして温められた容器をテーブルの上にあらかじめ用意された鍋敷きの上に置くと、笑って見せて返したのだった。

「言っておくが、君がいつ帰るのか僕が知ったのはつい数時間前だ。こっちの仕事も佳境で、「それどころじゃなかった」から。

 仕事は無事終わったけど、ディナーの用意はしてない。あるのはずっと前に仕込んであったこいつだけだ」

 ブノワはもちろん、その言葉はおそらく半分は真実かもしれなかったが、半分は用意されたある種の「罰」なのだと理解した。

 よく理解したうえで、(重いため息を飲み込んで)、彼は頷いて返した。

「ありがとう。手の込んだものを用意しておいてくれて」

「どうやら冷えてないシャンパンは一本増えたみたいだけど、まあ、酒はたくさんあるよ」

「そうだな」

 ブノワはそう言って苦笑し、それから改めて両手を持ちあげて見せた。

「……それで、ただいまのハグは?」

 そう問いかけながら改めて近づくと、フィリップはちらりと視線を彼に向け、それからため息をついて見せた。

「ハグ?」

「……本当はキスしたいけど」

「僕がノーと言うと思ってるのか?」

 その答えに、ブノワは笑って、それからもう一歩彼に近づいてしっかりと恋人を抱きよせた。

 そして間近に瞳をのぞき込み、唇を合わせる前に囁いた。

「メリークリスマス、フィリップ。遅くなって悪かったよ。ほんとうに、君に会いたかったんだ」


 ブノワはそのあと、(予想通り)、けして好きではないクリスマスプディングでがっつり満腹になったあとで、フィリップの「それどころじゃなかった」という言葉がただの嫌味ではなかったのだと知ることになった。

 恋人が久しく書きあぐねていた作品を仕上げたのだと知った彼は、プディングで膨れた腹を撫でながらも改めてそれを祝い、そして今度こそふたりきりのクリスマスを静かに祝いあった。



https://unsplash.com/ja/%E5%86%99%E7%9C%9F/L5uiRYgvrEg








* ヒュグラが演じている彼氏ことフィリップはファーストネームしかわからないので、ファミリーネームはパディトン2の彼の役からお借りしていますw

* 心からブノワとフィリップの番外を見たいです…というか3話めは彼らの旅行先で起きる事件とかどうですか?(笑)

* 中の人準拠で言うと、フィリップが8歳くらい年上なの…いい…

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